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第四話 黄金色の苦み

Penulis: 白蛇
last update Tanggal publikasi: 2026-07-05 16:02:55

 理玖りくと再会した、翌日の夜。

 わずかな仮眠と昼のアルバイトを経て、凜は再び華やかな銀座の街に身を投じていた。

 重い足を引き摺ずって『club Estrellaエストレージャ』の控室に入る。

 中には、一際目を引く鮮やかな赤のドレスを着こなした玲奈れいなが、鏡の前でいつもより執拗しつようにファンデーションを叩いていた。

「おはよう。昨日は代役ありがとうね。店長から聞いたわよ。山下さんの連れの方、あんまりいい顔してくれなかったんだって?」

 玲奈はパフを置き、振り返って足を組む。彼女の目は細められ、口角はわずかに歪ゆがんでいた。

「まあ、気にしない方がいいわよ。大企業の社長さんなんて目が肥えてるんだから、あなたじゃ荷が重すぎたかも。でも安心しなさい? またいらっしゃったら、今度は私が直接――」

 玲奈がそこまで言いかけたとき、血相を変えた店長が、ノックもなしに転がり込むようにして控室に入ってきた。

「ちょっと、まだ準備中だって」

 玲奈が冷たい声で言い放つ。

 だが、店長は彼女を気にも留めずに、凜に向き直って話し始めた。

「凜、昨日はよくやった! 昨日の黒瀬様から、本指名だぞ」

 店長は満面の笑みを浮かべ、凜の肩を叩く。

 視界の端で、玲奈の表情が引き攣つったのを見て、凜は息を呑のんだ。

「……な、何かの間違いじゃないの? 凜じゃ、キャストとしてのマナーなんて、まだまだ分からないはずだもの。私もその席に――」

 そう言って席を立とうとした玲奈を、店長は一瞥いちべつもくれず、払いのけるような片手だけで制した。

「いや、その必要はない。お客様が『凜を一人で』ってご指名なんだ。それに、玲奈にはあの佐藤さんから指名来てるぞ。最近、売上良くないんだから、気合入れろよ」

 店長の言葉に玲奈は唇を噛み、乱暴にパフを肌へ押し付ける。

 鏡の中の彼女の横顔が、ひどく険しく見えた。

「それよりも凜、余程よほど気に入ってもらったんだな! VIPルームで待ってもらってるから、急いでくれよ」

 店長はそれだけを言い残して控室を出て行った。

 室内に残されたのは、重くるしい静寂だった。

 玲奈は凜を見ることもなく、化粧の仕上げを続けている。

 だが、凜は玲奈を気にかける余裕などなかった。ただ、その場で立ち尽くす。

――あれだけ拒絶したくせに……なんで。

 もう二度と会うことのないはずの理玖が、なぜ再びこのクラブにやって来たのか。

――まさか、忘れ物でもした?

 いや、それなら指名する必要などない。もしかして、話し足りない恨み言を聞かされるのだろうか。

 心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち、胃の奥が冷たく、重くなる。

 凜は借り物の華奢きゃしゃなドレスに着替え、逃げるように控室を出た。

慣れない高いピンヒールが、ミッドナイトブルーの絨毯に深く沈み、足許が覚束ない。

 VIPルームの引き戸の前で一度立ち止まり、深く息を吸う。

 一度、二度。

 意を決して、戸を引いた。

 昨日と同じ、照明の光すらも吸い込むような漆黒しっこくのスーツに身を包んだ理玖の、冷徹に研ぎ澄まされた視線が真っ直ぐに突き刺さった。

「あの、理玖――」

 名前を呼ぼうとした瞬間、理玖の目が更さらに細められた。

「く、黒瀬様。ご指名、ありがとうございます……」

 凜は慌てて頭を下げる。

――やっぱり、許してくれてるわけない……。

「さっさと座れよ」

 刺すような声に頭を上げると、理玖は右手でソファを指差していた。

 凜は震える足を踏み出し、ソファに座る。理玖の、右隣。

「ボトル入れてやるよ。困ってんだろ? こんなとこで働くぐらいだし」

 ノイズに塗まみれた声。咄嗟とっさに凜がメニュー表を手渡そうとすると。

「一番高いやつにしとけよ。八年ぶりの再会だ、盛大に乾杯しようぜ」

 理玖は低く、歪んだ高笑いを浮かべた。

 その言葉に、呼びボタンを押そうとした凜の指が凍り付く。理玖の視線が突き刺さるように痛かった。

 直後、引き戸が音もなく開いた。

 現れた黒服は、恭うやうやしく銀のトレイを捧げ持っている。その上には、すでに冷やされた一瓶が載っていた。

――なんで……? まだオーダー通してないのに……。

 振り返ると、理玖が得意気とくいげに口角を吊り上げている。

 目を瞬またたかせる凜を余所よそに、トレイがテーブルへ滑り込む。

 深い緑の瓶、黒いラベルに記されているのは『Krug Clos d'Ambonnayクリュッグ・クロ・ダンボネ』。

 『club Estrellaエストレージャ』で勤めて八年の凜ですら、数度しか触れたことのない――確か、一本で数百万円は下らない世界最高峰のシャンパンだ。

「俺を裏切って消えた名家の令嬢との、再会の夜にぴったりだ。なぁ、凜?」

 理玖が喉の奥で低く笑いながら、凜の瞳の奥を覗き込んできた。

 凜はただ小さく頷くことしかできなかった。

 黒服は一礼し、ラベルを理玖に向けて抜栓ばっせんする。コッと硬く、それでいて控えめな響きが反響した。

 クリスタルグラスに注がれた液体は濃厚な黄金色で、立ち昇る泡は細かく、闇夜に溶ける星のように淡く弾ける。

 室内の空気は、凜の心中とは裏腹に、芳醇ほうじゅんで官能かんのう的な香りに塗り替えられていった。

「じゃあ、乾杯だ」

 黒服が立ち去ると、理玖はグラスを掲げた。

 凜もグラスを掲げる。手が震えていた。グラスの縁がカチッと小さく触れ合う。

 理玖がグラスを傾ける。喉仏が上下し、黄金色の液体が減っていく。

 視線を感じながら、凜も口に運ぶ。濃厚な香りが、鼻の奥に引っかかった。

 一口。静かな液体が舌の上を滑った。

 細かな泡が弾け、熟した果実の甘みと、焦がした砂糖に似た苦みが喉の奥へ落ちていく。

 高価な酒のはずなのに、凜には、あの眩しかった八年前の思い出を濁らせる苦い液体に思えた。

 凜がようやく飲み終えると、理玖は弾かれたように席を立った。

 一瞬だけ、その瞳の奥が揺れた。

 怒りなのか、嘲りなのか、それとも別の何かなのか――凜には分からなかった。

「じゃあな。また来てやる」

 吐き捨てるように言い残し、理玖は早足でVIPルームを出ていった。

 その背中は、勝ち誇る男のものには見えなかった。まるで、何かから逃げるようだった。

 エレベーターのモーター音が、静まり返った廊下に硬く響く。

 凜は深々と頭を下げたまま、暫しばらく動けなかった。

 脳裏に、黒いスーツとクリュッグのラベルが重なって見える。

――また。

 あの苦みがまだ、心の空白をなぞるように舌の上に纏まとわり付いていて、凜はそれを無理矢理喉の奥へと飲み込んだ。

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