Masuk
重い足を引き
「おはよう。昨日は代役ありがとうね。店長から聞いたわよ。山下さんの連れの方、あんまりいい顔してくれなかったんだって?」
玲奈はパフを置き、振り返って足を組む。彼女の目は細められ、口角はわずかに「まあ、気にしない方がいいわよ。大企業の社長さんなんて目が肥えてるんだから、あなたじゃ荷が重すぎたかも。でも安心しなさい? またいらっしゃったら、今度は私が直接――」
玲奈がそこまで言いかけたとき、血相を変えた店長が、ノックもなしに転がり込むようにして控室に入ってきた。「ちょっと、まだ準備中だって」
玲奈が冷たい声で言い放つ。 だが、店長は彼女を気にも留めずに、凜に向き直って話し始めた。「凜、昨日はよくやった! 昨日の黒瀬様から、本指名だぞ」
店長は満面の笑みを浮かべ、凜の肩を叩く。 視界の端で、玲奈の表情が引き
「……な、何かの間違いじゃないの? 凜じゃ、キャストとしてのマナーなんて、まだまだ分からないはずだもの。私もその席に――」
そう言って席を立とうとした玲奈を、店長は「いや、その必要はない。お客様が『凜を一人で』ってご指名なんだ。それに、玲奈にはあの佐藤さんから指名来てるぞ。最近、売上良くないんだから、気合入れろよ」
店長の言葉に玲奈は唇を噛み、乱暴にパフを肌へ押し付ける。 鏡の中の彼女の横顔が、ひどく険しく見えた。「それよりも凜、
室内に残されたのは、重くるしい静寂だった。
玲奈は凜を見ることもなく、化粧の仕上げを続けている。だが、凜は玲奈を気にかける余裕などなかった。ただ、その場で立ち尽くす。
――あれだけ拒絶したくせに……なんで。 もう二度と会うことのないはずの理玖が、なぜ再びこのクラブにやって来たのか。――まさか、忘れ物でもした?
いや、それなら指名する必要などない。もしかして、話し足りない恨み言を聞かされるのだろうか。 心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち、胃の奥が冷たく、重くなる。 凜は借り物の
昨日と同じ、照明の光すらも吸い込むような
「く、黒瀬様。ご指名、ありがとうございます……」
凜は慌てて頭を下げる。 ――やっぱり、許してくれてるわけない……。「さっさと座れよ」
刺すような声に頭を上げると、理玖は右手でソファを指差していた。 凜は震える足を踏み出し、ソファに座る。理玖の、右隣。「ボトル入れてやるよ。困ってんだろ? こんなとこで働くぐらいだし」
ノイズに直後、引き戸が音もなく開いた。
現れた黒服は、――なんで……? まだオーダー通してないのに……。
振り返ると、理玖が 深い緑の瓶、黒いラベルに記されているのは『
「俺を裏切って消えた名家の令嬢との、再会の夜にぴったりだ。なぁ、凜?」
理玖が喉の奥で低く笑いながら、凜の瞳の奥を覗き込んできた。 凜はただ小さく頷くことしかできなかった。 黒服は一礼し、ラベルを理玖に向けて
「じゃあ、乾杯だ」
黒服が立ち去ると、理玖はグラスを掲げた。 凜もグラスを掲げる。手が震えていた。グラスの縁がカチッと小さく触れ合う。理玖がグラスを傾ける。喉仏が上下し、黄金色の液体が減っていく。
視線を感じながら、凜も口に運ぶ。濃厚な香りが、鼻の奥に引っかかった。 一口。静かな液体が舌の上を滑った。細かな泡が弾け、熟した果実の甘みと、焦がした砂糖に似た苦みが喉の奥へ落ちていく。
高価な酒のはずなのに、凜には、あの眩しかった八年前の思い出を濁らせる苦い液体に思えた。凜がようやく飲み終えると、理玖は弾かれたように席を立った。
一瞬だけ、その瞳の奥が揺れた。 怒りなのか、嘲りなのか、それとも別の何かなのか――凜には分からなかった。 「じゃあな。また来てやる」吐き捨てるように言い残し、理玖は早足でVIPルームを出ていった。
その背中は、勝ち誇る男のものには見えなかった。まるで、何かから逃げるようだった。エレベーターのモーター音が、静まり返った廊下に硬く響く。
凜は深々と頭を下げたまま、
――また。
あの苦みがまだ、心の空白をなぞるように舌の上にカーテンの隙間から差し込む光に、凜はゆっくりと目を開けた。 見慣れた寝室。 身体にはまだ、昨夜の温もりがわずかに残っている。 耳を澄ますと、隣から寝息が小さく聞こえてくる。 視線を横へ向けた。 理玖が安らかな表情で眠っている。「……凜」 理玖がぼそりと零した寝言に、昨夜の記憶が蘇る。 触れた唇。 抱き締められた身体。 そして――。『……もう終わり?』――っ! 凜は毛布を引き上げて包まった。――うち、何言ってんの……。 思い出しただけで耳まで熱くなる。 昨夜は何かを考える余裕なんてなかった。 けれど朝になってみると、恥ずかしいことばかりを次々と思い出してしまう。 毛布から目だけを覗かせて、理玖を見る。 まだ眠っているらしい。「……よかった」 胸を撫で下ろした瞬間。「何がよかったんだ?」「えっ!?」 理玖が目を開けた。「起きてたん!?」「お前の声で起きた」「嘘や」「何でだよ」「絶対起きてたやん」「朝から元気だな」 理玖が笑う。「だって、理玖があんなことするから」「俺だけのせいか?」「……知らん」 凜はまた毛布の中へ潜り込んだ。 しばらくすると、毛布の上から頭を軽く撫でられる。「苦しくないのか?」「大丈夫」「そうか」「ねえ、理玖」「ん?」「昨日のこと」 そこまで言って、続きが出てこない。「昨日のことが何だ?」「……うち、一生忘れんと思う」 本当に言いたかったこ
――それでも、凜の身体は理玖の体温を、まだ覚えていた。 触れたままの膝から、じわじわと熱が伝わってくる。「凜、膝当たってる」 低い声が、すぐ近くで響く。――早く離れなきゃ。 そう思うのに、身体は言うことを聞かない。「俺が離れろって?」 呆れたような、それでいて少しからかうような声。 理玖のパジャマを摑む指先に力が籠もる。「……そうやないけど」「あのな、俺も男なんだぞ」「えっ」 理玖の言葉に顔を上げた。 理玖の真っ直ぐな視線とぶつかった。 捕らえられてしまったかのように、目を離すことができない。「……そんな顔で近付かれたら、勘違いするぞ」「な、何を……?」 理玖が一度大きく息を吐いた。「……何でもない」 理玖が視線を逸らし、寝返りを打とうとした。 その瞬間、凜の指が勝手に動いた。 摑んでいたパジャマを、さらに強く握る。「凜?」 言うなら今だって分かってる。――分かってる、けど。「もうちょっとだけ、こうしてたい」 絞り出した言葉は、本当に伝えたいものではなかった。 理玖の気配を感じていたいのに、自分の心臓の鼓動がうるさいほど邪魔をする。「分かった」 理玖が再び凜に向き直る。 さっきよりも、互いの呼吸が近くなった。「最初に言ったこと、覚えてるか?」「最初って?」「俺が求めた時、お前には拒否する権利はない。……そう言っただろ」 契約を結んだ時、いくつもの条件を突き付けられた。 その中に、確かにそんな約束もあった。 けれど理玖は、その条件を理由に一度も凜を求めてきたことはなかった。「……う
「凜?」「……なに?」「行かないのか?」 一瞬、息が止まった。 理玖は不思議そうにこちらを見ている。 もしかしたら、深い意味なんてなかったのかもしれない。――何一人で盛り上がってるんやろ、うち。 頬が熱くなる。「……行くよ」 毛布を畳んでソファに置き、立ち上がる。 俯き気味に理玖の横を通り過ぎようとしたところで、彼の手が額に伸びてきた。「もしかして、また体調悪いのか?」「そんなことないけど」「顔赤いぞ」 図星を指され、ますます頬が熱を持つ。「べ、別に、なってないけど」「なってる」「お風呂上がりの理玖が暑いせいちゃう?」「俺のせいかよ」 呆れたように笑う。 その表情が凜の胸の奥をくすぐった。 ほんの少し前まで、理玖とこんなふうに笑い合える日が来るなんて、想像すらしていなかった。 それなのに。 たった三日、まともに顔を合わせなかっただけで。 連絡は来る。 同じ家で暮らしていることに変わりはない。 それでも、声を聞くことも、笑顔を見ることも減った。 当たり前になりかけていたものが、ほんの数日離れただけでこんなに恋しくなるなんて思わなかった。 寝室に入り、理玖がベッドへ潜り込む。 いつもなら眠る時も外さないネックレスに、凜は指をかけた。 一瞬迷ってから外し、サイドテーブルの引き出しにそっと仕舞う。――別に、何かを期待してるわけやない。これはただ、寝るのに邪魔だから。 首筋の軽さに落ち着かないながらも、そう自分に言い聞かせる。 理玖から少し距離を空け、ベッドの端に浅く腰掛ける。 二人分の体重を受けたマットレスが小さく軋んだ。「どうした? 寝ないのか?」「……うん」「やっぱり
理玖とまともに顔を合わせなくなって、三日が経った。 朝起きると、理玖はもういない。 夜も凜が眠る時間になっても帰ってこない日が続いた。 それでも、以前とは違う。『昼飯は食堂のうどん』『今日も遅くなる』『会社に泊まる。先に寝てろ』 短いながらも、こまめに連絡は来た。 凜も、『分かった』『無理せんといてね』 そう返す。 指先で理玖からのメッセージをそっとなぞる。 たった数行のやり取りなのに、以前よりずっと近くに感じられた。 それでも。 広い部屋で一人きりになると、やけに静かだった。 スーパーでタイムセールになっていた惣菜を食べ終え、ソファに座ってスマートフォンを眺める。 午後八時を少し回ったばかり。 理玖からのメッセージはまだなかった。――今日も遅いんかな。 そう思った時。 玄関から鍵の解錠音が響いた。 凜は顔を上げる。――え? 聞き間違いかと思ったが、入り込んできたぬるい外気が頬を撫でた。 続いて、理玖の「ただいま」という声。 ソファから立ち上がり、足早に玄関へ向かう。「おかえり」「すまん、スマホの電源切れた」「今日は早かったんやね」「ようやく、一段落ついた」 理玖が靴を脱ごうとして、一歩蹌踉めいた。「理玖!?」 咄嗟に彼の腕を摑む。「ちょっとふらついただけだ。大丈夫」 そう言う理玖の目には、深い隈が刻まれている。「せやけど、休んだほうがええよ」 理玖の手を引いたままリビングのソファに座らせる。 脱いだスーツのジャケットを預かる。 汗に混じった、どこか懐かしい匂いが鼻を掠めた。 ジャケットをハンガーにかけ、キッチンで理玖のマグカップに麦茶を注ぐ。 ローテーブルに置くと、理玖は喉を鳴
昼を過ぎた頃。「社長、白川の来訪者記録が届きました」 希美の声に、理玖はノートパソコンから顔を上げた。「山下はいたか?」「システムトラブル前一週間だけでも、山下という名字の来訪者が五人います」「まあ、そうなるよな」 珍しい名字ではない。 名字という手がかりだけでは、それくらい出てきても不思議ではなかった。「ただ、訪問部署と訪問理由で絞ると、この二名が有力かと思います」 希美が画面をこちらへ向ける。「一人目は六日前。情報システム部門を訪問しています」「もう一人は?」「四日前です。こちらも同じ部署です」「防犯カメラは?」「二人とも残っています」 希美が最初の映像を開き、時間を合わせる。 受付で来客用カードを受け取っているのは、五十代くらいの小太りな男だった。「違うな」「では、二人目です」 別のファイルを開く。 シークバーの操作に合わせて、何人もの人間が受付を通り過ぎていく。 希美が通常再生に切り替える。 受付にやって来た男を見た瞬間、理玖の目が留まった。 後ろ姿に見覚えがある。 そして、男が振り返った。 ポケットからスマートフォンを取り出す。 希美が数秒戻し、もう一度再生する。 男が横を向いたところで再び止めた。 鮮明とは言えない。 それでも、背格好と目元には見覚えがあった。 理玖は画面に顔を近付け、目を凝らす。「……こいつだ」「間違いないですか?」「ああ」 名前だけなら偶然で片付けられたかもしれない。 だが、今は違う。 凜の義弟の大雅と一緒に現れた、あの男だった。「何の用件で来てる?」「旧システムとの調整業務となっています」「以前から出入りしているのか?」 希美がキーボード
翌朝九時。 KWS本社の会議室で、理玖は欠伸を噛み殺しながらノートパソコンの画面を睨んでいた。 ブラインドの隙間から入り込む陽射しが、短い仮眠を挟んだだけの目に沁みる。 白川ホールディングスのシステムは、一部を除いて復旧が進んでいる。 だが、KWSを取り巻く状況は別だった。 昨夜からニュースサイトには関連記事が増え続け、KWSの名前は何度も見出しに上がっている。 前日に大きく値を下げた株価も、まだ安心できる状況ではない。 システムだけ直せば終わる話ではなくなっていた。 復旧したと発表したところで、原因が分からないままでは同じことがまた起きると思われるだけだ。 KWS側に問題がなかったとしても、それを証明できなければ意味がない。 そして、肝心の原因もまだ分かっていない。 理玖は重くなった瞼を指で押さえ、再び画面へ目を戻した。「社長」 向かい側に座る高遠希美が、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。 理玖と同じくほとんど寝ていないはずなのに、芯の通った声はいつも通りだった。「お前、眠くないのか?」「眠いですが、仕事ですから。それよりも、見てください」 理玖は希美のノートパソコンを覗き込む。「白川から届いた、追加の資料です」「何の資料だ?」「白川が以前から契約している外部業者の一覧です。旧システムの保守や、今回の移行作業で一時的に権限を持っていた業者も含まれています」「KWS側じゃなく、白川側の業者か」「はい」「全部出してきたのか?」「はい。白川紗夜さんから、調査に必要なものは全て開示するよう指示があったそうです」「……そうか」 堂島の紹介があったとはいえ、今回の案件をKWSへ持ち込んだのは紗夜だ。 白川ホールディングス内では、その采配の是非を問う声も出始めていると聞いている。 それでも、紗夜がKWSへ責任を押しつけるような







